頼んでないことを相手がやっただけ…
みなさんはこのように言った(思った)、あるいは言われたことはないでしょうか。
「あなたのためにせっかく○○したのに、感謝の気持ちが足りない」
「せっかくここまでやってあげたのに」
「心配してあげたんだから、連絡くらいしなさいよ」
など。した側としては、自分の労力を過大評価しているので、相手にももっと評価してほしい。しかしされた側としては、相手の労力は過小評価しがちなので、
「別にしてくれなくてもよかったのに」
「頼んでないことを相手が勝手にやっただけなのに」
と感じてしまうようなケースです。
大学の課題レポートでもマーケティングなどの業務でも同様のことがしばしば起こっています。調査報告書を制作する際、調査者と報告書の制作者が同じ場合には、本筋との関連の薄いデータやグラフなどをつい挟み込んでしまい、冗長で読みづらい報告書になってしまうことは珍しくないものです。
「苦労して調べたデータなのだから、有効活用したい」
という気持ちが強くなってしまうのでしょう。一方、報告書を見る側からすると、「必要のないデータが差し込まれていて、整理されていない」と感じられてしまいます。誰もが、「自分が世界の中心バイアス」にとらわれているのです。
「自分の常識は世間の常識だ」という姑
自分の「常識」の過剰一般化バイアス
先日、知人からこんな話を聞きました。嫁姑の話です。
2人はなかなかうまくやっているのですが、お姑さんは少し、お嫁さんに言いたいことがあるといいます。それはしきたりに関することだそうです。お姑さんとしては、お嫁さんにしきたりをもっと大事にしてほしいようなのです。
ただ、そのしきたりの内容を聞いてみたところ、社会一般から見て当たり前のしきたりとは言い難いものでした。一例を挙げると、親戚の結婚式に出席する準備をしていたお嫁さんに、お姑さんはある種の着物を手渡し、
「この着物を着なくてはいけない」
と伝えたそうです。一方、お嫁さんはまだ若かったこともあり、結婚式のためにドレスを新調していたため落ち込んでいた、とのことでした。
そのお姑さんは、どうやらさまざまなしきたりのある地域で育ったらしく、「〜しなくてはならない」ということがたくさんあるようでした。
お姑さんにとってはその着物を着ることは一般常識で、「自分のしきたりは正しいことである」「自分の常識は世間の常識だ」という思い込みがありました。
「一般常識に合わないことは、正しくない」。そうした思いから、しきたりを知らないお嫁さんにしっかりと教えなくてはという使命感に駆られていたのです。
お嫁さんがほんとうに全然しきたりを知らないのかといえば、そんなことはありません。お姑さんの故郷のしきたりと、お嫁さんが育った地域のしきたりでは、違うことも多くあるでしょう。「どちらかが正しくて、どちらかが間違い」ということではない話は多いものです。
育った地域、今住んでいる地域、国や年代によっても、「常識」は変わります。常識というのはそもそも、とても限定的なものです。しかし多くの人は、「自分の常識=世界の常識」と思い込んでいます。そしてそれは、国際的な軋轢の原因にさえなっているのです。